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飛び込め、八月。

2022 / 10 / 14

学パロ。

すまないね、こんな時期に飛び込ませてしまって。

​若いから許しておくれ。

​何が青春かなんて、本人たちはわからない。

 かたちのない空は水の中にあって、眩いほどの太陽も一緒にその碧へと飛び込んでいた。

 綺麗に二つ折りされた進路調査票をぺらりと開く。明朝体で形式的に書かれたその紙には闇ノシュウという名前に、きちんと第一、第二、第三希望までの進路が書き込まれている。提出期限は今日の午後五時。時計を見ると時刻は午後二時を回ったところで、テストで午前に終わった学校、その教室内にはほんの数人しか残っていなかった。今すぐ職員室に行けば余裕で間に合うその紙を、数日前から未だ提出出来ずにいるのは、シュウ自身のエゴに過ぎなかった。
 卒業したら遠距離になる。随分前からわかっていたこのことをシュウはずっと受け止めきれずにいた。ルカと自分の進路選択は違うし場所も決して近くはない。会いに行けやしない距離なんて、この現代において無いけれどそれでも今みたいに毎日顔を合わせてくだらない話をして笑い合って、そんなことが簡単にできなくなってしまうのだ。ルカはどう思っているのだろうか。お互い進路のことはもちろん話しているけれど、シュウの進路を聞いたときにルカはポグ!としか言っていなかったし、シュウほど気にしていないのだろうと思った。そのことが少しだけ寂しかったけれど、ルカらしいなとも思った。しようがないことだとわかっているのにこうして悶々と悩んでいる自分にも嫌気が差してきて、ぎしりと椅子を軋ませながら天井を仰いでいると、不意にばたばたと廊下を走る足音が響いてシュウの教室の扉ががらりと開いた。
「え?!なんでシュウいるの」
「え、ルカ…って、なんで濡れてるの!」
 驚きに声を上げたルカを見てシュウも驚きの声を上げた。
「あ、えっと、プール掃除?」
 そう答えたルカの髪の毛からは雫が垂れている。どうやらタオルを取りに来たようで、自分の席に置いてある鞄をごそごそと漁りその中からタオルを取り出した。そういえば放課を告げるチャイムが聞こえてから彼は姿を消していた。鞄は残っていたから学内には居るはずだからと、でもわざわざ探す気にもなれなくてそうしてだらだらと居残っていたのだとシュウは思い出した。
「もしかして待っててくれた?」
 あ、でもそれ提出今日だろ、それ書いてたのか。嬉しそうに言ったルカの視線がシュウの机の上に注がれそこで止まった。シュウは咄嗟に机の上に広げていたその紙を隠すように折り曲げて鞄へと仕舞い込んだ。
「うん、待ってた。掃除はもう終わったの」
「いや、まだ最後に残ってるんだ。シュウも来てよ。そのまま一緒に帰ろう」
 そう言って鞄を肩に掛けたルカの跡を追ってシュウも教室を出た。
「お、結構溜まってる!」
 最後に残っていると言ったのはどうやらプール内に水を溜めることだったらしい。昨日、どうやらルカとその友人らがプール掃除を頼まれ、彼らの中でじゃんけんをして負けた一人が掃除をするということに決まり、ルカがもれなく負けたそう。そういうことなら一言先に言ってくれれば良かったのにとシュウは言ったが、ルカは笑って
『シュウに手伝わせるわけにもいかないし、頭の中がもう早く終わらせることしかなかった』
 と言っていた。プールに着くと水は半分程まで溜まっており、あと十分もすれば溜まりきるだろう。ふう、と息を吐いて地べたに座り込んだルカの隣にシュウもしゃがみ込んだ。少しの沈黙が流れる。ギラギラと照り付ける太陽と風一つない空間に二人の静かな呼吸だけがしていた。植物だったら良かったのに、非生産的な二酸化炭素を吐き出すこの生き物の身体でそんなことを思ったりする。年々地球温暖化だのと騒いでいるこの人類こそがその原因だというのに。あたまが暑さでやられてしまうかと思いそうな頃、ルカが口を開いた。
「シュウ、進路悩んでるの」
 正面を見つめながらそう言ったルカの、妙に的外れな質問に胸がざわつき始める。進路のことでも、そもそも悩んでいるわけでも、無い。ただ、ルカとの間に起こるだろう少し先の未来を考えて落ち込んでいるだけだった。
「ううん、進路のことじゃないよ」
「でも、あの紙進路希望調査票だろ」
「…ルカはさ、卒業した後のことどれくらい考えてる?」
「え?卒業した後は専門学校に行って、」
 そうじゃなくて、そう言ってシュウは横を向きルカの顔を見た。ルカも知らぬ間に此方を見ていたようでばちりと目が合った。水仙のような瞳が澄んでいた。
「ぼくたちのこと」
「おれとしゅう?」
 うん、そう応えた言葉は直ぐ近くのルカにさえ聞こえていたかも危うい程に小さかった。しかし、ルカはそう尋ねると、少し考える素振りを見せた後でいきなり立ち上がった。そうしてプールの方を確認しくるりと振り向いて、その拍子にシュウの手首を掴んで一目散にプールめがけて走り出した。太陽に負けないくらいの笑みを浮かべてシュウ、と名前を呼んで駆けたルカの姿はまるで翼が生えているみたいだった。
「え、ちょ!るか!」

 飛び込むんだ、さあ、いっせーので!

 ざぶん。視界がぐらりと揺らいで、気が付いたときにはもう、冷たい水の中へと飛び込んでいた。なんとか息を止めて、閉じていた目を開けた。すると、水中に沢山の光が反射していて、朧気な視界がきらきらと輝いていた。この青は空の色だ。もう久しく見ていなかったような、毎日見ていたはずなのにそんな気分になるほどの綺麗な空にシュウは暫くそのあおを見つめていた。ざばりと水面から顔を出すと、隣でルカは犬みたいに顔を振って水を払っていた。
「なかなか顔出さないから溺れたかと思って一瞬心配になったよ」
 そんなに綺麗だった?そう問い掛けるルカの目を見つめていた。眦から優しさが滲んでいて瞬いていた。水に濡れた金糸の髪の毛が太陽に反射して煌めいている。ずぶ濡れのワイシャツに透けた逞しい身体に不覚にもどきりとしていると、ルカはシュウに近づいてきてその手を握った。
「おれ、シュウがすきだよ。シュウとこうしていられる時間がいちばんすき」
「うん」
「……シュウは?」
「ぼくもすきだよ」
「…んふ、ふはは」
 シュウがいない未来なんて考えたことないよ。照れたようにそう言ったルカのくちびるを奪った。勢いをつけすぎてがちりとぶつかった歯に知らん振りをして冷たい水の中で、熱いキスを交わした。背中に回ったルカの手も熱かった。鞄に仕舞い込まれた紙切れを、後で出しに行こう。きっとびしょ濡れの二人を先生たちは驚き叱るのだろうけれど、それすらも僕らには大切なことだった。

 今日のことをいつか思い出すだろう、いつだって、何処でだって、君に逢いたいぼくのことを、僕らは思い出す。夏の終わりの始まり。

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 嫌でも終わりはくる。選択しなければいけないときがくる。頭では理解していても、心はどうしても追いついていかない。十八歳の心とはそういうものだ。それが例え優秀な子であっても、のんびりな子であっても、変わらない。皆一様に選択を迫られ、自分の将来について一丁前に悩み、勉強という名の便宜的行為に勤しみ、そうして学び舎を離れていく。失敗しても何とかなるなんて、そんなことを思えるほどまだ人間というかたちを形成していない若者達は、藻掻き苦しみ喘ぎながらも明日への光を探して今日を生きている。そんな眩しさこそ、紛れもない青春だと私は思うのだ。

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