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氷菓が溶けきるまえに

2022 / 10 / 30

Word Palette August

葉月「火花」「瞳孔」「向日葵」

​つけ込んだヤミノ氏はすごい

​こんな僕を生かしておくなんて。

 ぱちぱちと火花のように弾けたのは、口の中に含んだ冷たいソーダだった。全く逆の熱を持ったその感触が、このじりじりと焦がす夏を急かすみたいに打ち水をした。僕の手にはびいだまの一つ入ったソーダ、ルカの手には六本入りのバニラバー。急かされた僕は、まだ陽の高い、午後三時半。口の端を白くした彼に唇を付けていた。

「しゅっ、」

 ルカの左手に持っていたアイスが溶けて、あまい雫が手に垂れる。はっと驚いた顔をして強張った身体の、その動けないさまがどうしてか愛おしく見えて、ごめんねと便宜ばかりの気持ちを抱えながらその口の中に舌を這わせた。

「うわあっ!?」

 どうして受け入れられると思っていたのだろう。勝手な行動を酷く後悔したのはどん、と胸を強く突き飛ばされてからだった。瓶の中身はほとんど飲みきってしまった後だったから溢れることは無かったけれど、すっかり溶けてしまったルカのアイスはその手を伝って床を汚していた。ひどく自分勝手な行動を悔いる心とは裏腹に、少しでもルカに触れられた喜びを感じてしまって、思わず自嘲的な笑みが零れた。は、と吐き出した息のなんと浅ましいことか。

「なん、で、こんな」

「君が好きだからだよ」

 ルカの息が詰まる音がする。こんなこと、思ってもいなかったのだろうということを迅速的かつ明確に理解してしまって、胸が痛んだ。わかっていたはずの脳みそは、確かに脳みそだけで、心臓はわかってなどいなかったのだ。柔い心の奥、きっとどこよりも繊細なその扉はきちんと鍵を掛けて閉めておかねばならなかったのに受け入れられた気になって、容易に壊れてしまった。仮説的な素粒子が勝手に鍵穴を酸化させ、そうして錆びて壊れたそこを自ら開けたのだ。誰にも触れさせてはいけない、触れたらゾンビのように朽ちてしまうその場所にルカを入り込ませたのは、紛れもなく僕自身で、だから自嘲気味に笑ってしまったのだ。君が好きだと言ったのは言い訳にしかすぎない。好意を向けていれば赦されると思っているのか。黙りこくったルカの顔を見たくなくて、手にした瓶を揺らした。取り返しのつかないことをしてしまったのだから、もういっそのこと、僕を完膚なきまでに罵倒して欲しい。心優しいルカならそんな酷いことは言わないだろうなんて、ほらまた、彼に甘えている。

「…シュウは俺のこと好きなの」

「、そうだよ」

 蝉の声がやけに耳に響いた。

「ほ、ほんとう?」

 なんでそんなこと聞くんだ。ルカなりの虐め方ってことだろうか。

「本当だよ」

 降参さ、自首をする犯罪者みたいに首を突き出してルカの顔を見上げた。

 自分の瞳孔が開く感じがする。

「え、……?」

「ぁ、」

 ぱっと顔を隠すようにしたけれど、不自由な右手のせいで上手く隠せていないのは今の僕にとっては目に毒だった。両の手首をくっつけるようにして差し出したつもりのそれは、ただ空を彷徨ったままで間抜けな僕の顔みたいにその場に浮いていた。

 僕は君に、酷いことをしたんじゃなかったのか。ねぇルカ、その顔は一体。

「いや、あ、シュウ、おれ」

 べちゃりとアイスが床に落ちた。世界は五月蠅く啼いている。じわりと滲み出した汗の、垂れるさまがやけに鮮明だった。

「なんで顔赤くしてるの」

 今度は僕が聞き返す番だった。刑務所に行く予定だったのに、乗せられた車はリムジンで、今から豪華客船で世界一周旅行みたいな、いや流石にそこまでは言い過ぎたけれど、ともかくそんなくらい予想外な出来事が目の前で起こっているらしい。らしいというのは、僕自身、そのことを上手く飲み込めていないからだ。今まで友人だと思っていた(流石に友人だと思われていることくらいは納得して欲しい)人にいきなりキスされて、それを突き飛ばしたのだからそんなの驚きと嫌悪感に決まっていると思うではないか。一抹の赦免を請うていたって、そんなの踏み潰せるほど穢れた欲望であることだと知っていた筈だ。それなのに、今僕は確かに赦されていて、何ならまさしく手を取ってもらえそうなのである。

「ねえ、そんな顔されたら僕、許された気になっちゃうよ」

 それでも良いの。ルカに問い掛けているようで自分にも問い掛けていた。本当にこの目の前のこの子を攫って仕舞えるのか。汚れた手を握ってもう一度触れ合うことが出来るのか。黙りこくってしまったルカの返事は聞かなくてもわかる。だからここで、最後の確認をした。

「僕はルカが好き。ルカもそうなの」

 目の前に広がる向日葵畑に君と一緒に溶け込んで仕舞えるよ。打ち水なんか辞めて、夏の陽射しを浴びながらじりじりと焦げて灰になれるよ。君はそこまでじゃなくてもいい。でも、少しでもこんな僕を赦してくれるのなら、僕は迷わず君の頬に触れてその紅く染まった肌に口づけを落とすよ。

 こくり、と頷いたルカの、滲んだ目がぱちりぱちりとする度にソーダみたいに弾けてそんな顔にすっかり満足してしまった僕は、冤罪、という文字を掲げながらその手を取った。べたりと付いた甘い氷菓は僕が自殺するための銃と同じ味がした。

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