oyama no souko.
弥生のまち
2022 / 08 / 21
word palette March
弥生「記憶」「讃歌」「陽光」
ヤミノさんを悩ませたがりです。
死ぬまでなんて言わないから。
咳をしても一人。自分はいずれそうなるのだとどこかで思っていた。だってそれは、人は皆そうなる生き物だから。死ぬときは独りだと、この前読んだ本にそう書いてあった。読書家な自分はためになる知識と共に余計なものまで知っていた。齢二十にも満たぬ若者の、誰が死について思い悩むことがあろうか。この学び舎を発ち、新しい門出を祝うかのように世界が賛歌で溢れかえるこの時期に、己は一人、薄暗がりのベッドの中で眠れぬ夜を過ごしていたのだった。
「最近元気ないみたいだけど、どうかしたの」
もうすぐ卒業式だよ、目の下に隈なんかこさえちゃってさ。そう言ってアイクがシュウに話しかけた。寒さの残る昼休み、暖かい陽射しがが窓から差し込んでいて、窓際に座っていた二人のからだを包み込んだ。そうかな、と逸らした先、裏庭では別れの時間まで惜しむことなく遊び尽くそうとばかりに、快活な男子たちが外を走り回っていた。その中には例に漏れず金色の髪を揺らしたルカの姿もいて、その元気な笑い声が二人の耳に微かに届いた。元気だね、なんて随分年寄りみたいな言葉がシュウの口から溢れた。それを聞き、アイクはルカのことじゃなさそうだね、と言ってサンドイッチの包装をぺりぺりと剥がした。伏し目がちに落とされた眼鏡の隙間からアイクの優しい瞳が覗いている。
「え?」
「シュウに何かあるとしたらまずルカのことじゃないかなって思っただけだよ」
「いや、ルカのことじゃないよ」
そう言ってシュウもお弁当の包を開ける。一緒に持ってきていたスープジャーを開けて一口啜ると、じんわりとした温かさが胸に滲みた。
「じゃあ、どうしたの。無理に聞きはしないけど」
小さな口をめいいっぱいに開けて、アイクはレタスやトマトにハム、チーズが挟み込まれたサンドイッチをぱくりと口に入れた。その声色は心配しているような、けれど本当に無理に聞き出そうとはしないような優しい口調で、そんな彼と友人になれて良かったとしみじみそう思った。
「笑わないで聞いて欲しいんだけどさ、」
「うん」
「ここ一週間くらい、死ぬことを考えて眠れないんだ」
「…そう、なんだ」
まさか卒業式を直前に控えたまだうら若き友人の口からそんなことが出るとは思ってもみなかった(いや、笑わないでと言われてから本当に何が来ても大丈夫なように心積もりはしていたのだが、それにしたって余りにも重すぎる悩みだったのだ)アイクは、反応するのに一瞬間が空いてしまった。
「その前に読んだ本の中に、死について言及したものがあって、それを読んでからどうも深く考えてしまって眠れないんだ」
自分でもなんて悩みだよとは思うけどね。自嘲気味に笑ってそう言ったシュウに釣られてアイクも笑みを溢す。聡明で知識量に富んだ彼でも、所詮は一人の青年なのだと、そのアンバランスさが可笑しく、そして酷く好ましいとアイクは思った。眠れぬほど悩んでいるのなら、他の人に聞いてみるのはどうだろうか。自分は生憎良い応えが返せそうにない。少しだけ彼と似ている自分は、同じように悩んでしまうだろうなと思ったから。それに、適役はもういるのだ。
「ルカに言ってみたら」
「え、」
「ルカならなんて返すかな」
急がないと、五限は体育だよ。そう言ってアイクは一口ほどに残ったサンドイッチを口に放り込んだ。目の前の友人の悩みを、その恋人である愉快な性格をした同じく友人の彼ならなんと応えるのだろうか。ふと見上げた空から降り注ぐ陽光に、アイクは目を細めそのレンズをきらりと光らせた。
放課後、名前を呼ばれて振り返ると手を振りながら此方へ向かってくるルカの姿が見えた。
「シュウ!帰ろう」
「うん」
追いついたルカと歩幅を合わせて玄関へ向かう。今日の昼、アイクと食べてただろ。窓際に座ってるの見えたよ。そう嬉しそうに話すルカの顔を見て、シュウはそのときアイクに言われたことを思い出した。自分の中に薄暗い暗雲が立ち込めてゆく。ふと翳りを見せるシュウの顔に気がついて、ルカが訝しげに尋ねた。
「シュウ、どうかしたの」
体調悪いの?お腹痛い?そう聞いてくるルカの瞳を朧気に捉えて、シュウは口を開いた。
「咳をしても一人」
「ん?」
「そう書かれた本を最近読んだんだ。有名な詩で、作者が晩年に病気になって咳をするんだけど、一人きりの部屋だから誰も反応する人がいなくて、そのときの淋しさを謳ったものなんだ。それを読んでからふと自分が死ぬ間際のことを考えるんだ。人間死ぬときは一人だろうなって思ってはいるんだけど、そのときのことを考えたら何だか悲しくなってきて。自分でもよくわからないけど、そんなことを考えていて眠れなかったんだ」
あはは、こんな話いきなりされても困るよね。そう笑って言おうとしたシュウの言葉を遮って、ルカが口を開いた。
「シュウの隣にはずっと俺がいるから大丈夫だよ」
ルカのその声に、視線を外し俯きがちに顔を伏せていたシュウは目を瞠ってその顔を上げた。なんて優しい声で言うのだ。もっと、軽快に巫山戯た様子で返すと思っていたのに。それに、そう返されたとき用の返しをこちらも用意していたのだ。
『死なんてまだまだ先のことでわかんないよ』
『そうだよね、最近疲れてるみたいだ』
そうシミュレーションしていたシュウの予想を裏切って、顔を上げたシュウの顔をルカは優しい顔で見つめていた。
「シュウが咳をしても俺が背中をさすってあげるし薬だって買ってきてあげる。だからシュウも俺が風邪引いたときは看病してよ」
柔く握られた手から己より少し高めのルカの体温がゆっくりと伝わってくる。寝不足なら一緒に寝てあげるよ!握った手を引いてシュウに笑い掛けるルカの顔は記憶の中のそれらと変わりのない、いつも通りのルカのもので。先程のはただの偶然に過ぎなかったのだろうかと思ったそれも、腕を引かれて走り始めるルカのせいで何処かへと飛んでいってしまった。けれど何度も、深い闇の底に沈んだ自分を引っ張り上げてくれるその逞しい腕を、僕はよく知っていた。
誰よりも幼稚で純粋な若者は、その実心の中に誰よりも慈愛に満ちた温かさを持っていたのだった。