oyama no souko.
トワノチカイ
2023 / 01 / 15
幸せになる前日の夜。
話を壮大にさせがち。
伸ばした先の、向こう側。
時折、西陽に目を瞑ってしまうような昏さに充てられるときがある。南の空の上で留まっていてくれないかと思っていても、恒常のそれは僕の希望など一切無視して動き続ける。果てしなく続く銀河のなか、ひとつの枠組みをもって歩み続ける太陽系。そのごく僅かな地球という惑星、そのほしに産まれ出逢った僕らの、たった数十年の旅。
「ルカには僕よりも、君の隣に相応しい人がいたんじゃないかって、思ったりするんだ」
君が右へ行こうと言ったら、少し考えて、それから左と、正面と後ろと、それから上と下まで確認して、そうして右だねと言って歩むように僕は進んできたと思っている。本当はすぐに駆け出して迷子になってから僕の名前を呼ぶような人なのに、そういうときは必ず待て、が出来ているみたいにじっと黙って僕のことを見つめている。
そんな言葉が出たのは、そんな言葉を発するには余りにも場違いで、けれど、少なくとも水中で出したときの空気ぐらいには必然性のあるタイミングだった。
明日結婚するのに。とルカは言わなかった。きっとルカも僕とおんなじ何かを持っていて、それを今まで出してこなかっただけなのだ。水深千メートルで暮らす、深海魚みたいにゆっくりとした時間が流れた。彼らが空を見るのは、目の前の餌に食らい付いて勝手に水揚げされたときだけだ。一生灯りのない暗がりで、ただひっそりと生きるさまは僕らのような立場の人間には心地よくて、けれど、そんな僕らも明日、空を見ることになる。だから、その前に思わず口を出たこの言葉だって、僕には自然なことだったのだ。ルカが小さく息を吸うのが聞こえた。
「じゃあ、仮に、そうだとして、シュウ、はこの手を、離せるの」
ふたり並んだベッドの上、ふたりで天井を見つめながらただ手を握っていた。そのルカの手が強張る。けれど、決して力を加えることはせずに手の平を強張らせたまま、黙って僕に問い掛けていた。心ごと僕を。また、待っている。本当は左に行った方が良いんじゃない、と提案した僕の瞳をただじっと見つめて何も言わず、僕を待っている。待っているのか、踏み出すことが出来ないのか。俺を置いていかないで、シュウ。そう言っているようにも聞こえる。可笑しい。あくまで選択権はルカにあるはずなのに。まるで僕から手を離すのではないかと言うように。
嗚呼、もうずっと、君にそんなつもりはなかったってことなのか。
その可能性を提示するということは、自分にも同じくその可能性があることを相手に伝えているということだ。僕が放ったその言葉はそのまま僕にブーメランとして返ってきて、けれどそれを受け取る勇気を僕は生憎、持ち合わせていない。僕の隣にいる人間を、君以外のひとで考えるのは、たまったもんじゃない。
茜色の空を指差して、君が言った。シュウと見に来られて良かった、と。満点の星空を指差して、君が言った。シュウが俺を愛してくれて良かった、と。今もまた、空に指を差そうとして、躊躇っている。隣でクサい台詞だなんて恥ずかしがりながら、それでも幸せそうに言葉を紡ぐ君が、僕を待っている。
その手をぎゅっと握りしめて、僕は言った。
「それはちょっと、嫌だなあ」
離せるか、離せないか。僕は嫌だと言った。可能性の提示ではない、ただの意思で我が儘で、告白だ。隣を見ると、空を指差した君は、俺も嫌だよ、と言って笑っていた。
遅すぎることなどない。そして、逸すぎることもない。雄大な銀河の、たった小数点以下の一光年しか僕らは歩むことができないのだから。数十キロサボったって、神様にはバレないのだから。少しくらい寄り道をして愛を深め合ったって怒られないはずだ。ランタンの灯る街、今日はその灯りを消してキスをしよう。あの頃みたいに。
古びた廃屋の、埃っぽい部屋。まだルカが喘息を患う前。小さな手にもう一つの小さな手を引かれて訪れた先で、僕らは誓い合った。
「シュウは、おれが幸せにする!」
僕の頭に薄汚れたカーテンを無造作に掛けて、その隙間に優しく指を滑り込ませる。普段は粗雑なルカの手がそのときだけはやたら慎重で、そのことに頬が熱くなるのを感じながら僕は妙にどきどきしていた。その丁寧な動きとは裏腹に、大きな声でそう告げられた僕は、拍子にくしゃみをしてしまって、ルカのまっちろなその肌を唾だらけにしてしまったのを覚えている。
白いタキシードに身を包んだふたりが教会の真ん中で向かい合う。金糸の髪が揺らめく彼の頭には白く透けたヴェールが掛けられていた。
もう手は震えていない、何度別の方向を確かめたって、僕は右に行くと決めたから。君の手を取って。握り返してくれるその手を離さないで、数多の空に手を翳して、何光年先の幸せに目を細めて、僕は目の前のルカと目を合わせた。
「今度は僕が、ルカを幸せにするから」
君の手を離せない、離したくないと、駄々を捏ねる子どもがめいっぱい格好付けた言葉。昨日あんなことを言ったのに、随分自信ありげじゃないか。でもそんなこと、どうやらルカにはバレていないみたい。だってもの凄く恥ずかしそうに、顔を紅くしている。
お、おぼえてたの。
当たり前でしょ。
僕を待つ君。君を待たせている間に僕は何度君を想っていたのか、今度教えてあげようと思う。切り倒された大木の上、そこにひとつだけ産まれた芽のように、僕らはまた生きていく。初めて青空を見た気分は、僕らの愛よ。ようこそ、永こそ。