oyama no souko.
最愛の弾
2023 / 01 / 06
何でも許せる方向け。
ふんわりした話。暗い。
鴎が啼いている
びゅうびゅうと吹き荒ぶ生白い風が己の頬を掻っ攫って撫でていく。鈍すぎる空の色はどうしたって晴れる気配などなく、地平線の彼方まで、ただ重苦しげに漂っていた。まるでこの世の空に浮かぶものはそれしかないとでも言うように。
波が立っている。激しく。まるで己の心のようだ。有名な唄に合わせて押し寄せるように、ただただこの身体どもを飲み込もうと向かってくる様は、なんと畏ろしいことだろうか。大きな波の隙間に幾つもの波が重なって、まるで此方を小馬鹿にしたようにけらけらと笑っているのである。嗚呼、五月蠅い。手にしたクロームモリブデン鋼がやたら重く感じて手が震えていた。たかだか鉛一欠片しか入っていないそれを、どうして重いと感じることがあろう。決して外してはいけないと、そう、言われたわけでもあるまいに。
「君のその手で殺めることに意味があるんだよ、シュウ」
数メートル先で靡く金色も今は錆びたようにどす黒く染まっていた。こびり付いた紅だったものは、此処へ来る間に何度も塵へと変わった。金が錆びるほどの大量の酸素を吸い込んで、この金は錆びてしまった。否、彼の中にあるものは何ひとつ錆びてなどいない。ただ煌々と、今でも輝き続けている。
ルカが名を呼んだ。彼に呼ばれるのはこれが八度目である。出遭って一年と微少の期間を経て、その間に彼が己の名を呼んだのはただ八度。しかし、この八度というのは実はルカの中では最大の回数である。彼は滅多に人の名を呼ばない。そして名を呼ぶ意味を、一度だって間違えたことなど無い。歓迎、失望、要求、煽惑。確かな意味を持って、彼は名を呼ぶ。では今は、今己の名を呼んだのはどんな意味を含んでいるのだろうか。薄らと開かれた口唇の、その中で真っ朱な舌が覗いている。弱肉強食のピラミッドの最頂点、絶滅種に於いてその先端にいる者が喰い散らかしてきた様な冷酷さを真赤をもって伝えている。シュウ、そう呼んだのは万謝の意味である。手にした身体をこの世の魂と繋いで、シュウは産まれた。
あたくしは人間と化物のキメラで御座います。それが母の口癖だった。だからその女の母胎がら胎盤をちょん切って産まれ出でた己も、自ずと人間と化物のキメラなのだと思っていた。稚児の啼く声が遠くで聞こえている。また、この矮小な世界の何処かでエントロピーの誕生が謳われた。一度産まれ出でた赤子は二度と胎内に戻ることはない。時間という不可逆性の名の下にただ忌み腐るか翼を持って育つかのみである。朽ちるとき、それを終末と呼び、逆行とは呼ばない。そのようにして生命は産まれる。そしてそれは例えキメラであろうと己も同じことであった。
「迷ったら引き金を引くのは、迷っているこの間にも罪の業が深まっていくだけだからだよ」
暴論の糾弾を澄ました顔で躱して、彼は言う。
僕は未だ、人を殺めた事がない。
「どうしても、なのかい」
覚悟の話ではない。ただこの一発で、彼という物体は魂を無くした文字通り抜け殻と成ってしまうからだ。有刺鉄線の外側、逃げ出してきた我々の最期はこんなので良いのか。
「良い悪いの問題じゃないよ、シュウ」
吐いて捨て入るなら、間違いなく己の心臓はこの世の道化をすべてひっくるめたかたちをしているんだろう。嘘だ、僕は君に居なくなって欲しくないだけなんだ。いつの間にか潮が満ちて靴底を濡らしている。相変わらず波間から悪臭が漂って、亡者に手を掠め取られてしまいそうだ。この手を引けるものか。視線はずっと、彼の瞳孔を向いている。シュウ、そう呼んだのは、悲憤の意味である。
愛の何たるかを己はよく知らない。性行をもって引き継がれる生命活動の中で、情と呼ばれる非確定的でそれでいて確実性のある存在を持ったもの、I don’t know that.
弓を引くとき、または剣を握るとき。愛について人々はこう言う。愛する者の為にそれを引けるのか、振り下ろせるのか。己にはそれについて答えを出すことが出来ていない。愛憎を含んでいるからである。
「キスしてよ、シュウ」
棒立ちの、首を此方側へ向けていたルカが不意にそう呟いた。一度手を掛けた重みを降ろして数メートルの距離を詰める。砂と塩水の混ざり合う、軟らかな感触を踏んだ。シュウ、そう呼んだのは、博愛の意味である。
「ハハ、相変わらず綺麗だね」
顔を海の方へと向けた。禍々しい風景の、轟音に耳を傾ける様はまるで北欧の草原に居るようだった。凪いだ表情は酷く整っていて、切れた瞼さえ目に付くことはない。その瞳の中心、ライラックが濁って光を吸い込んでいる。綺麗なのは其方の方だと言いたくなった。血で固まった、髪の束を柔く掴んで避けると、妙えたかおで目を細めていた。僕の好きな顔は、目の前にある造り込まれたそれではなくて、もっと自然で稚児のように淡い笑い方だった。かさついた皮膚に己の其れを近付ける。その刹那、ぽつりと呟いた。
「愛しているよ、シュウ」
ドン、と鈍い音がした。目の前で触れていた生温かい温度が離れていく。一ミリメートルも動かせない身体の前で徐々に魂の塗装が剥がれ落ちていく感触だけが頬を伝った。馬鹿だね、人間なんて信じるもんじゃないよ。事切れる前に母が遺した呪言だ。雲間から確かな眩い光が差し込んで、肢体を照らした。この手で殺めたことの意味とは、最期にルカが己の名を呼んだ意味とは。晴れのあるこの世に、やはり恒常のものなどないのである。終戦を告げる鐘の音を空から天使が奏ででいた。
愛おしい人、どうか、もう一つの鉛を僕にくれないか。